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幕末のシルクロード・「絹の道」の碑

幕末のシルクロード・「絹の道」の碑
絹の道の碑

黒船到来により、安政6年(1859年)、横浜港が開港しました。
そのとき、日本から欧米に向けて輸出されたのが「生糸(きいと)」です。
生糸はその主な産地である長野や山形・八王子から横浜に向けて運ばれました。
この石碑がある原町田周辺は、まるでシルクロードのように絹等を運ぶ物資の道となりました。
そもそもこの原町田地区は、天正年間(1573~92年)には三斎市(さんさいいち)が、江戸時代になると六斎市(ろくさいいち)が開かれた場所で、横浜が開港されると生糸をはじめ諸物資の集散地となり、二六の市(六斎市)が盛んに行われ商業地域を形成し、現在の原町田に発展しました。
小田急線町田駅南口を出ると広場があり、その広場の道路に面した部分にこの石碑が立っています。
一番街商店会の皆様の有志で建立されたというこの絹の道の石碑は、原町田誕生400年を記念して建てられたもので、原町田で商売をする方々の歴史と、今も変わらぬ心意気の現れが感じられます。

小田急のくらし編集部より


町田市の町田駅前には「絹乃道」と書かれた石碑が建っています。
町田は幕末に生まれた「絹の道」により発展した町で、石碑は町田の歴史を示す存在です。

幕末に横浜港が開港すると、当時の主要な輸出品である生糸が多く輸出されました。
横浜に近い生糸の主な産地は八王子で、さらに甲斐(山梨県)や上野(群馬県)など大規模な産地からも八王子に集められていました。
八王子から横浜まで生糸を運ぶ道が「絹の道」となり、中間付近にある町田は中継点として発展しています。

一方、横浜からは外国から先進的なものが流入し、明治時代の自由民権思想は「絹の道」を中心に広まり、特に町田は自由民権運動の中心地になっていました。
当時神奈川県に入っていた多摩地区が東京府に移管された一因にもなっています。

そして、「絹の道」の痕跡は終着点の横浜でもみられます。
横浜市中区には「シルク博物館」があり、絹の歴史や絹製品などが展示されており、実際に飼育しているカイコを見たり糸くり・はた織りの体験をしたりすることも。
町田と横浜を巡って、ぜひ日本の近代化を支えた歴史に思いを馳せてみてください。

ゆうこさん(8)の記事

絹の道の碑

https://www.machida-shakyo.or.jp/kids/enjoyfuyu1012/enjoyfuyu3.htm

東京都町田市12
小田急線町田駅南口を出てすぐ
042-850-9311(町田ツーリストギャラリー) 【記事情報】
公開日:2015年3月23日
更新日:2021年9月17日

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